アウトリーチLEADER'S VOICE

Jean-Marie Lehn教授に荏原充宏MANA准主任研究者が聞く  

「次は何か?」を問おう




超分子化学のコンセプト

荏原:MANAにお越しいただきましてありがとうございます。

Lehn教授:どういたしまして。

荏原:最初に、超分子化学のコンセプトが、どのようにして広く用いられるようになってきたのかをお伺いしたいと思います。このコンセプトは簡単に受け入れられたのでしょうか?

Lehn教授:それにはある程度の時間がかかりました。私は最初に、この「超分子化学」という言葉を1978年に2つの論文で用いました。批判されはしませんでしたが、この用語が広く用いられるようになるには時間がかかりました。生物学的か否かに関わらず分子認識は実際には分子現象なのですが、生物学者は生物学的な現象ととらえていたために、分子認識という考えが受け入れられることは少し難しかったのです。実際、生物学の基礎は化学、つまり分子にあります。人間は全て分子からできています。したがって、分子認識は非生物の世界とともに生物にも関わっているのです。

荏原:教授が若いころは、どんな性格の方だったのですか? いろいろなものに興味を持っておられたのですか、あるいは一つの事に集中しておられたのですか。

Lehn教授:まず、私は科学者といえるような学生ではありませんでした。高校時代には、最終学年を除き、古典、ラテン語、ギリシャ語と哲学を学んでおり、科学はそれほど学んではいませんでした。大学では哲学を学びたいと思っていましたが、フランスでは哲学を学ぶには科学の試験を受けることが必須でした。そこで科学の試験勉強を始めたのですが、化学に興味を持つようになり、そのまま化学を続け哲学はやめることにしたのです。

荏原:教授はたくさんの論文を発表されていますが、最も記憶に残っているものはどれですか?

Lehn教授:研究の流れから考えて、1969年にフランス語で発表したTetrahedron Letters掲載の論文を挙げたいですね。これは、超分子化学へと至る私たちの研究の開始を意味する論文なのです。しかし、コンセプトとその後の展開においてもっと重要なものは、1995年の私の著作による「超分子化学(Supramolecular Chemistry」でしょう。

荏原:この本は、日本でもとても有名な本です。日本語に翻訳され、化学を学ぶすべての学生がバイブルとして使っています。


創造性を発揮しようとする若者が直面する課題

Lehn教授:先ほど述べた一つめの私の論文はフランス語で書かれ、「Tetrahedron Letters」に発表したものであることは強調したいですね。私が言いたいのは、論文の発表先が有名なジャーナルであったり、英語で書かれていたりする必要はないということです。私にとってはこれらのことにさしたる意味はなかったのですが、若い人たちにはこれらのことに関する大きなプレッシャーがあるので、この観点はとても重要なことです。発表先のジャーナルが研究の質を決めるのではなく、(投稿される)研究がジャーナルの質を決めるのです。

荏原:重要なのはジャーナルの知名度や使用言語ではないということですね。これは若い研究者にとってはとても貴重なメッセージですね。ところで、研究者の評価についてはどのようにお考えでしょうか?

Lehn教授:もし新たに誰かを雇用しようとするときに、もちろんまずは多くの人々の中から絞りこむということはしなければなりませんが、ベストの方法は候補者たちとよく話をすることです。その人物を良く知るためには面接をすべきです。

荏原:MANAは、異なる分野や文化が融合し創造的な研究を助長する「Melting Pot」の環境を追求しています。このような非常に国際色豊かな研究環境が挑戦的な研究を可能にすると考えています。教授は、若い人たちが創造性を養うために重要なことは何だとお考えですか?

Lehn教授:科学には国境がありません。科学は完全に国際的なものです。私は、ノーベル賞受賞者が日本人だとか、フランス人あるいはアメリカ人だとか言うのは好きではありません。科学は科学そのものであり、国家的なものである必要はありません。ある程度までは、国家レベルで平均的な科学のレベルに関する情報が示されることはあるでしょう。質の高い研究を生み出すためには、各国が良い研究インフラを持ち、良い教育を行い、さらに効率的な管理を行うことは重要です。しかし、科学そのものを国家的な論点から語るべきではありません。
 私はいつも若い人に、科学者としての専門的な仕事は国際的であるので、とても楽しいものであると話しています。世界中のあらゆるところに仲間や友人がいます。
 荏原さんは国際的な研究環境について触れておられましたが、まさにこれは非常に大切なことです。国際的でかつ学際的なこと、この2つはともにつながっていることが多いのです。

荏原:教授に大きな影響を与えた言葉はありますか? 私は教授がMANA国際シンポジウム2016で発表された中の「thereʼs even more room at the top(最上部にもまだ多くの研究余地がある)」という言葉がとても印象に残っています。それは、ファインマンがナノテクノロジーを重要な分野であることを示した「thereʼs plenty of room at the bottom(最下部には十分な研究余地がある)」という言葉と対比されていますね。教授は、ナノ科学やナノテクノロジーの先にある目標は複雑さであると提唱されました。今では、我々はナノスケールにおける複雑なシステムを解明しようとしています。あの言葉はとても素晴らしい言葉でした。

Lehn教授:あれは、冗談半分で言ったものですが、大きさはさほど重要ではなく、重要なのは複雑さであることを明確に伝えたかったのです。言葉に関しては、重要だと考えているものがいくつかあります、例えば理性、真理、知識等です。人間は理性に基づいて行動するべきで、科学者としての心構えは私に何らかの影響を与えるものです。


超分子化学を様々な分野に応用する

Lehn教授によるMANA国際シンポジウム2016での特別講演

荏原:今では、超分子化学は多くの分野で応用されていますが、まだ応用がなされていない、私たちの予想を超えるような分野があるのでしょうか?

Lehn教授:化学において超分子化学は重要なステップですが、もちろん化学はそこで止まってしまうわけではありません。常に、「次は何か?」を問うことが重要です。
 私にとっての「次の何か?」は、適応化学(adaptive chemistry)です。そこでは化学システムの発展が動的で、システムの組成はそれに作用する環境、物理的刺激、化学成分等のいろいろなファクターに応じて変化します。複雑さが増すにしたがって新しい特性が出現する「複雑物質(complex matter)」に向かいつつあるのです。
 脳科学は最も重要で活気に満ちた分野ですが、そこで取り扱われるべき課題から考えると、まだスタート地点に立ったばかりです。脳科学で我々が今行っていることは、脳そのものに比べて非常に単純なものです。コンピュータは脳が及ばない速度で処理をしますが、脳はコンピュータよりもはるかに複雑な機械です。従って、コンピュータで脳の機能をシミュレートしようとすることはただ1つの側面にすぎません。最も重要なことは、脳がどのように機能するのかを解明することです。これらの2つを結合させる必要があると思います。
 次に我々は情報の蓄積という問題に出くわします。分子認識は、特定の化学成分の情報の処理や蓄積に関係しています。一方、動的なシステムには、化学成分の分布の内に情報を蓄積できる可能性があります。多くの要素からなる動的システムがあると、それらの要素のすべてのコンビネーションを作ることができます。さらに、もしこれらの動的に組み合わされたコンビネーションに何かを加えれば、その比率が変化します。したがって、情報はある分子やパターンの中に蓄積されるのではなく、加えられた因子に特徴的な分布の中に蓄積されます。動的な組み合わせに情報を暗号化するためのアプローチとして、誰かが使ってみようと考えるかもしれませんね。
 またバイオマテリアルを可逆的なものにし、人工細胞を作ることも非常に面白くやりがいのある分野です。

荏原:私もバイオマテリアルの分野で研究を行っております。超分子ポリマーではなく、単なるセットポリマーですが、温度応答ポリマーあるいはPH応答ポイント等の刺激応答性ポリマーに関する研究を行っています。バイオマテリアルはほとんどが静的であるのに対し、人間の体は常に動的ですので、私は動的システムに非常に関心があります。私もまた、人工細胞を作ることは非常にやりがいのある分野だと思います。

Lehn教授:まさにそうですね。しかし、ポリマーも動的にすることができます。例えば、蛋白質を構成するアミノ酸を細かく切断して再結合させることにより一つの蛋白質から何百万もの蛋白質を作ることができます。バイオマテリアルを可逆的にすることは、とても面白い分野です。

荏原:それはとても興味深いアプローチですね、大変参考になります。本日は、お話する時間を取ってくださり、本当にありがとうございました。



Jean-Marie Lehn教授
化学者、ストラスブルグ大学超分子科学工 学 研 究 所(Institut de Science et dʼ Ingenierie Supramoleculaires)超分子化学研究室(Laboratoire de Chimie Supra moléculaire)ディレクター。

1939年フランスのロスハイムに生まれ、ストラスブルグ大学で学び、1963年に有機化学分野でPh.D.を取得。
その後一年間ハーバード大学でポスドクとして研究を行った後にストラスブルグ大学に戻り、1970年に同大学教授。
1987年に高選択性の構造特異的相互作用を有する分子の開発と利用で、Donald Cram博士およびCharles Pedersen博士とともにノーベル化学賞を受賞。

荏原充宏
MANAメカノバイオロジーグループ准主任研究者。

1975年東京生まれ、早稲田大学よりPh.D.授与(化学工学分野)。
専門分野は、スマートマテリアル、バイオマテリアルおよび医療機器。

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