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アウトリーチAn Interview with Director-General

青野正和拠点長にきく  MANA拠点長/PI

− MANA10周年の節目に立って −


— まず、WPI拠点としてのMANAをNIMSの中に発足させようと考えられた動機や狙いを教えていただけますか。

 MANAが発足する数年前の2000年に、米国のクリントン大統領が『国家ナノテクノロジー・イニシアティブ』という教書を発表し、「米国はこれからナノテクノロジーの研究に力を注ぐのだ」と宣言しました。このニュースは世界中を駆け巡り、世界的なナノテクノロジーのフィーバーを起こしました。私は、それ以前からナノテクノロジーのパイオニアであることを自負していましたので(笑)、それを冷静に眺めていました。実際、私はすでに1989 ~ 1994年にJRDC(現在のJST)のERATO事業の「青野アトムクラフト・プロジェクト」を組織し、これは国の政府が関与した世界最初のナノテクノロジーに関する研究プロジェクトとされています。ですから、私はナノテクノロジーの世界的なフィーバーの意味を逆に誰よりもよく理解していました — 日本はナノテクノロジーにおいて世界のトップに立たなければならないと。折しも、文部科学省が2007年から「世界トップレベル研究拠点プログラム」(WPI)を発足するというニュースが流れてきました。当時のNIMSの岸輝雄理事長と相談し合って、NIMSの中に世界トップレベルのナノテクノロジーの研究拠点を創ろうと、そのグランドデザインを描いてWPI事業に応募し、採択されました。

− MANAの骨格である「ナノアーキトクト二クス」という概念や研究方向は、どのようにして生まれたのですか。

 当時、トランジスタなどを微細化して集積回路を作るマイクロテクノロジーがすでに非常に発展していました。それによって情報通信の世界に革新がもたらされたことはご存知の通りです。そのため、ナノテクノロジーはマイクロテクノロジーの延長、すなわちマイクロテクノロジーをさらに精緻化したものがナノテクノロジーであると捉えられていました。今でもそう考えている人が多いようです。それはまったくの誤解で、ナノテクノロジーはマイクロテクノロジーの単なる延長ではなく、質的に異なるものであること、そしてこの点をよく認識しておくことがナノテクノロジーの真の発展にとって重要であることを、私は強く感じていました。この事実を従来からあることばの組み合わせで表現することは可能ですが、私は何か新しい一語で表現したいと思い、「ナノアーキテクトニクス」(nanoarchitectonics) の語を用いることにしました。この語が包含する内容はいくつかありますが、最も重要な内容は、「不確実性を許容した信頼性」です。ナノテクノロジーが扱う10億分の1メートルの極微の世界では、熱的あるいは統計的な揺らぎが顕わになるために、設計図どおりに構造を構築できるとは限りません。その制限の中でも信頼のおける機能をもつ材料やシステムを構築するための科学と技術を創造しよう — これがナノアーキテクトニクスの一つの重要な意味です。

− MANAからは多くの優れた研究成果が生み出されましたが、その中で特筆すべきものを挙げていただけますか。

 沢山あるので迷いますが・・(笑)、いくつか挙げてみましょう。
 私たちが発明し、MANAにおいて研究を続けてきた、日本発の独創的なナノエレクトロニクス・デバイス「原子スイッチ」が、NECとの共同研究を通し
て、NECからAtomSW-FPGAとして実用化されました。ロボットや人工衛星に有効に使われ始めました。
 また、「ナノシート」と呼ばれる単原子層レベルの厚さのさまざまな2次元物質を作製する技術と、それらを任意の意図した順序で積み上げる技術を開発し、それによって多様な人工新物質を創製しました。これによって、たとえば、10 nm 程度の厚さの領域で従来物質より20倍も大きい誘電率をもつ新物質を創製しました。
 この他にも、詳細は省略しますが、「固体表面の巨視的な超伝導電流」を初めて観測した、「高効率の光触媒」を開発した、「単分子レベルのメモリー」を実現した、などが挙げられます。
 独創的な新しい測定方法も開発しました。「高感度の新しい臭いセンサー」、「透過型電子顕微鏡の観察下での物性測定法」、「多探針走査プローブ顕微鏡によるナノスケールでの電気測定法」などです。

− WPI拠点のミッションとして、1)世界最高レベルの研究、2)融合研究領域の創出、3)国際的な研究環境、4)研究組織の改革、の4つが設定されています。これらについてはどのように取り組まれましたか?

 実は、それらの4つは互いに密接に関係していることを徐々に認識しました。たとえば、世界最高レベルの研究のためには、国際的な研究環境を作って優れた研究者を内外から集め、融合研究を促進して新分野を開拓することが重要なのです。MANAでは、国際的な研究環境を実現するために、外国からの研究者にもフレンドリーな事務部門と技術支援部門を充実することに多大の努力をしてきました。公用語はもちろん英語です。また、融合研究を
促進するために、ブレイン・ストーミングのための“グランドチャレンジ・ミーティング”を温泉地で開催して、翌朝まで夢を語り合う機会を何度か設けました。さらに、優れた融合研究の提案に資金的援助をする“グランドチャレンジ・ファンド”なども設けました。
 このような努力の結果は、客観的な数値、たとえば論文の数(3,480報)、その平均インパクト・ファクター(2015年は6.25)、国際共著論文の割合(2015年は58%)、被引用数が世界トップ1%の論文の数(143報)、世界の各研究機関から発表される論文の質を評価するためのFWCI指標(2008 〜 2015年は2.41)に、如実に現れていると思います。

− MANAの10年間は、日本の基礎研究のあり方についても指針を与えたと感じられます。

 優れた基礎研究は必ず応用に結び付く、この方針でやってきました。しかし、「優れた基礎研究をしよう!」と叫ぶだけでは、モチベーションは上がりません。何か目標を設定することが必要だと思いました。そこで、MANAの中に3つのグランドチャレンジ研究テーマを設定しました。それらは、「ナノアーキテクトニクスによる人工脳の創製」、「室温超伝導の実現」、「実用的な人工光合成の実現」です。 3つのノーベル賞を獲ろうという計画です(笑)。これらの目標を設定したとき、「青野さん、大丈夫ですか、できなかったらどうするんですか」と心配してくれる人がいました。「始めからできることが分かっていたらチャレンジじゃないよ」と私は答えました。10年後の現在、どれもまだ完成していませんが、着実に近づいています。それ以上に、MANAの研究者に夢を与えていると思います。

− MANAは、WPI拠点の中でも最も国際的な拠点であると高く評価されています。

 NIMSが2003年から5年間にわたって運営した「若手国際研究拠点(ICYS)」での経験が大変プラスになりました。とくに外国人研究者の世話を適切かつ親切に行う経験を積んだ事務職員が、うまくMANAに引き継がれました。英語に堪能であればよいというわけではなく、さまざまなケースを経験してノウハウを身に付けた事務職員が大切なのです。また、技術支援のスタッフを充実したことも成功の鍵でした。こうした事務部門や技術支援部門の充実が、研究組織の活動にとってきわめて重要であることを、私はMANAの運営を通して強く認識しました。

− MANAのサテライトラボの役割についてもお聞かせください。

 WPIがスタートしたとき、サテライトラボを作ったのはMANAだけだったのです。当初は、海外のサテライトラボに資金を費やすのは無駄であるという批判がありました。しかし、私たちは、国際的に活動するためには、外国にサテライトラボを置いて協力し合うことも重要だと考えたのです。結果は成功でした。現在、6つのサテライトラボと実りのある共同研究が活発になされており、MANAの研究活動に一つの特徴を与えています。サテライトラボのPIも頻繁にMANAに滞在し、こちらの研究者を積極的に指導してくれていますが、彼らはそれを楽しんでおります。そういうことでサテライトは成功でした。

− これまでの10年間、MANAを育ててこられた青野拠点長として、これからのMANAに対するご希望は何ですか。

 MANAおよび2007年に同時に発足した他の3つのWPI拠点へのWPI補助金は2016年度をもって終了しますが、これらのWPI拠点はいずれもWPI Academy という新組織の傘下に入りますので、WPI-MANAの名称は残り、NIMSにおいてもWPI-MANAはパーマネントな組織として存続します。NIMSの橋本理事長から、WPIMANAへの積極的なご支援の心強いお約束をいただいています。MANAの拠点長は、現在の副拠点長である佐々木高義さんに交代します。事務部門長は中山知信さんです。佐々木拠点長と中山事務部門長の指導力によって、MANAが益々の発展を遂げることを祈っています。私および板東COOはエグゼクティブ・アドバイザーとして残りますので、佐々木拠点長と中山事務部門長を陰から支えたいと思います。
 佐々木さんは、ナノアーキテクトニクスの概念をこれからも育てていきたいと言われていますので、MANAの方向性は余り変わらず、これからも挑戦的な道を歩んで行くことでしょう。



青野正和

現在MANA拠点長およびNIMSフェローである青野博士は、1972年に東京大学から博士号を取得し、研究員として当時の無機材料研究所(NIRIM)に入所、1978年から80年まで、米国ウィスコンシン大学マディソン校のシンクロトロン放射光センターにて、Visiting ProfessorとしてDean Eastman博士が率いるIBMのグループとともに研究に従事しました。1986年に主任研究員として理化学研究所に移り、表面・界面研究室を立ち上げました。1996年から2005年まで大阪大学教授を兼任し、2002年にナノマテリアル研究所長としてNIMSに転任、2007年に現在の職に任命されました。博士は、表面化学、ナノサイエンス、ナノエレクトロニクス、ナノスケール計測分野の先駆者として、「直衝突イオン散乱分光法」、「アトムクラフト」、「原子スイッチ」、「マルチプローブSPM」、「化学ハンダ」等のキーワードで代表される、多くの研究を行っています。

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