アウトリーチLEADER'S VOICE

江崎玲於奈氏に聞く  

ブレイクスルーこそが未来をつくる




戦中にあって、 サイエンスの真理に惹かれる

 ——先生が具体的にこのような、サイエンスの世界に目覚めたのはいつでしょう。

 それには歴史がありますね。私の最初の挫折は12歳の時に京都府立中学校の入学試験に落ちたことなんです。それで非常に落胆したのですが、13歳で同志社中学に入学することになりました。1938年のことです。この同志社でキリスト教に基づくアメリカ文化という新しい世界にさらされたことが、私にとっては視野を広げることが
出来てとてもプラスに働きました。13歳というのはちょうど、他律に疑問を抱き、自ら物事を探求することができる時期の始まりです。自我の目覚めですね。その頃から、全人類に価値のあるサイエンスの研究こそが自分のやるべき仕事ではないかと思うようになりました。同志社中学にいたことが、私がサイエンスの研究で国際的に活躍できる基盤を作ってくれたのだと思います。

 ——当時は日中戦争のただ中ですね。

 そうです。私の10代はずっと戦争です。真珠湾攻撃の翌年、17歳で旧制第三高等学校(三高、現在は京都大学の一部)に入学することができました。当時、アメリカのB29が偵察飛行に来るのですが、成層圏飛行が極めて安定していて、日本の戦闘機はとてもじゃないが近づけなかった。これはアメリカの勝利というより、サイエ
ンスの勝利だと思いましたね。
 また、当時は戦中ですから、信じられるものが非常に少ない。それで私は、誰もが信頼できる知識、時を超える至上と言える知識を求めたんですね。人間の可能性を限りなく拡大してきたサイエンスの知識、それも宇宙を貫く普遍的法則を論じる物理学こそが最も価値あるようになると思いました。
 戦中の思い出にはこういうものもあります。東京帝国大学理学科物理学科に入学したのですが、だんだん空襲がひどくなってきた。1945年3月9日夜半から10日未明、あの東京大空襲の日、被災者百万、その内十万もの人が一夜で亡くなりました。私はあの時、東大の赤門から50m離れたところにあるアパートに住んでいた。なんと
か持っているものを取り出すことはできたんです。本とかなんとか…。そして、その夜が明けて10日の朝8時、当時の物理実験第一という講義を受け持っていた田中務先生はいつもと変わらず授業を行い、われわれは戦禍を忘れ、物理学の世界に没頭し、必死になってノートをとりました。田中先生は何にも言わずいつも通り授業をなさったのです。何があっても学ぶことに第一の価値を置けと教わったのです。まさに東京帝国大学アカデミズムの存在を実感した時でした。


「誰もやったことがないことをやる、それがフロンティアスピリッツ

 ——当時の講義では量子論が扱われていたんですね。

 そうです。古典力学を超える量子力学の講義は面白く大変感動しました。それで戦争が終わった1947年、卒業したときに量子力学の知識を企業で活用してみたいと思いました。企業には量子力学のことを知っている人は誰もいない。誰もやったことのないことをやろうと思ったんです。
 1947年、斬新的なトランジスタが生まれました。これは大へんなブレイクスルーです。それまでは真空管が信号の増幅に使われていたのです。私も真空管の研究をしていた。ここで重要なのは、真空管の研究の延長には、トランジスタは生まれなかったということです。安定した社会では未来は現在の延長線上にあると思いがちですが、ブレイクスルーというのは日進月歩の研究成果ではない。ブレイクスルーこそがイノベーション(技術革新)を惹起し未来を作るのです。
 私はトランジスタの誕生に刺激を受け、企業で当時全く新しかった半導体物理の研究をはじめました。ゲルマニウムやシリコンなどを扱う半導体は、当時フロンティア、未踏の領域でした。未踏領域での研究は、研究対象にも事欠かず、数多くの斬新な研究成果が生まれました。フロンティア領域の研究をすることで、ブレイクスルーが実現されることを実感しました。エサキ・トンネルダイオードはもちろん、そうした未踏領域での仕事です。

 ——エサキ・ダイオードにはどのようなご苦労がありましたか。

 薄さの限界への挑戦ですね。私はp-n接合における電子障壁の幅を10nm(ナノメーター)程度までとにかく薄くしました。実験機器も手探りで自作しながらの研究です。1957年、ついに量子力学的トンネル電流を観測できました。そして同時に、負性抵抗というサプライズもありました。これはダイオードに画期的な特性を与える、予想外の発見でした。それまでの苦労が報われましたね。こうしたサプライズの感動こそサイエンスの真髄だと思いました。
 このエサキ・ダイオードは翌年1958年6月に、ブリュッセルで行われた固体物理学国際会議で世界から注目を浴びました。1956年のノーベル物理学賞受賞者のウィリアム・ショックレー氏が「本会議でトンネル効果に対し、これまでなされた中で最も美しい研究成果が東京のレオ・エサキによって報告される」と絶賛してくれました。おかげで講演は超満員。当時私は33歳でした。

 ——その後、アメリカでエサキ・ダイオードの研究がかなり盛んになったのですね。

はい。アメリカの各地に講演に呼ばれました。勧誘も受けました。ベル研究所に講演に行った時、アレキサンダー・グラハム・ベルの胸像があり、彼の言葉がそえられていました。今でも覚えています。「時には踏みならされた道から離れ、森の中に入ってみなさい。そこではきっとあなたがこれまで見たことがない、新しい何かを見出すに違いありません」と。これに心を動かされ、よし、日本の踏みならされた道を離れ、アメリカの森に入り自分の力を試そうと思いました。これもフロンティア・スピリッツですね。

 ——そして、IBM T.J.ワトソン研究所に入られました。

 1960年、まだIBM中央研究所は建設途中でしたね。ここで所長ロイド・ハンター(Lloyd Hunter)から「何でもあなたが価値あると思われる研究を自由におやりなさい」と言われました。研究というのは、自分独自のゴーイングマイウェイの課題に取り組むのか、競争場裡にあり、おおくの人が関心のある最新のホットな課題に取り組むのか、二つのやり方があります。後者は資金も集まりやすいし、前者は成果が出るまで評価もされないというリスクがあります。でも、チャンスに恵まれればブレイクスルーが起こり得る。それを所長は知っていたのですね。当時私が取り組んだ人工超格子は、もちろん前者に属します。そのおかげで、分子線エピタキシーの研究も大いに進み、これを用いて半導体超格子構造を作ることができました。この成果により1998年日本国際賞を授賞しました。しかしそのずっと前、1973年、量子力学的トンネル効果の発見でノーベル賞を受賞しました。当時、私は48歳でした。



人間の一生は、
自分が主役を演ずるドラマ

 ——これからのナノサイエンスに、どのような期待を持たれていますか。

 サイエンスが面白いのは、サイエンスの将来は決して見通せないということです。技術の将来は見通せますが、これはどうしてか。現在のサイエンスをどのように活用するかが技術ですから。サイエンスの応用に近いものでバイオメディカルなどの分野は大いに発展するでしょうし、KAGRAを使った重力波の観測も期待したいところです。ナノサイエンスはDNAを通じ生命への理解にも貢献するでしょう。ともかく学際的なナノサイエンスは新しい研究のフロンティアで画期的な研究成果が期待できる分野です。

 ——MANAの若者へひとこといただけますか。

 私はサイエンスの研究は人間のやる仕事の中で最も価値の高いものだと思います。サイエンスは明確に「進歩」することが内蔵されており、人間の活動能力を限りなく拡大してくれます。文学、音楽、芸術、スポーツなどは時代と共に変貌を遂げますが、決してサイエンスのようには進歩しません。
 私は、東京帝国大学を卒業した時、自分の人生のシナリオを自分で作成しました。誰もやれなかったことをやろう、ということで量子力学の新知識を活用して量子デバイスを作ろう、という大きな人生戦略を立てました。人間の一生は、自分が主役を演ずるドラマであり、そのシナリオが問われると思います。自分の能力が最大限発揮できるようなシナリオを作れば、あとはチャンスを待てばいいのです。パスツールがこう言っています。「チャンスの女神は準備を整えたものを好む」と。





江崎玲於奈氏
一般財団法人茨城県科学技術振興財団理事長、芝浦工業大学学長、横浜薬科大学学長。

1947年東京帝国大学(現東京大学)理学部物理学科卒業後、神戸工業株式会社に入社。1956年東京通信工業株式会社(現ソニー株式会社)に移り、1959年には理学博士(東京大学)。1960年米国IBM T. J. Watson研究所。1973年ノーベル物理学賞受賞。1975年には日本学士院会員、1976年全米科学アカデミー外国会員。1992-1998年筑波大学学長。1998年日本国際賞受賞、2000-2005年芝浦工業大学学長、2006年より横浜薬科大学学長。一般財団法人茨城県科学技術振興財団理事長兼務。


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